【映像制作の現場から】ガレッジセール ゴリの長編監督デビュー作品 『南の島のフリムン』 制作インタビュー
2009.9.27 UP
会話の“間”を生かした映画作りを重視したと語るゴリさん
<<長編映画監督デビュー ゴリさんに聞く>>
大ヒット作『ドロップ』に続き、吉本興業と角川映画の強力タッグが贈る第2弾として、今年度の沖縄国際映画祭で上映された映画『南の島のフリムン』。人気お笑い芸人コンビ『ガレッジセール』のゴリさんが監督・脚本・主演をつとめ、沖縄出身のキャスト達によって作り上げられたことで話題となっている。同作で長編映画監督デビューを果たしたゴリさんに、制作エピソードや監督デビューの背景について聞いた。
<<沖縄の「ユイマール」(助け合い)の姿を描いた映画>>
「フリムンとは、沖縄の方言で『愛すべきおバカさん』という意味なんです。登場人物全員が、ちょっとどんくさくて、頑張り方を間違えてしまうような、笑える人物ばかりなんだけど、沖縄の根底に流れる“ユイマール(助け合い)”の精神を持っている。苦しんでいる人がいれば、皆で力を合わせて助けるという姿を描きました。笑いながらも、見終わったら心がほっこりするような映画にできたと思います」。
<<監督オファー快諾も、重圧と闘う苦難の道に>>
ゴリさんがこう話す同作は、今年3月開催の沖縄国際映画祭への出品を意識した企画だった。その監督を任されたのが、沖縄出身であり、過去に制作した短編でも好評を得ていたゴリさんである。
「偶然にも5月22日の誕生日にオファーをいただいたんです。大きすぎるプレゼントですよね。“ぜひやらせてください”と引き受けましたが、その翌日から地獄のような忙しさでした。何しろ規模が大きくて、1時間半の脚本が浮かばない」
「現場のベテランスタッフたちを指示する素質も力も知識も経験もない。映画が失敗するんじゃないかという重圧から逃げたくなるけれど、既にたくさんの人とお金が動き出していて、逃げられないんです」。
<<「ここで逃げたら終わり。頑張ればできる」と自らを叱咤>>
映画1本を製作するとなれば、その費用は数千万円から億単位にもなる。
「ひとりの人間が、こんなに巨額のお金を動かすなんて、そう簡単にあることじゃないですよね。今まで背負ったことのない重さの金額だったので逃げ腰になりそうでしたけど、ここで逃げたら終わりだと思いました」
「僕はいつも、根拠のない自信というものを持つようにしていて、それによって今までも色々な可能性を突破してきたんです。『大丈夫、頑張ればできる』と頑張ったら、なんとかプレッシャーを背負えました」。
<<ベテラン・スタッフの協力と地元・沖縄のバックアップに感謝>>
また、金額面だけでなく、人気芸人として、有名であるがゆえのプレッシャーもあった。
「初めての長編監督挑戦ですから、周りに馬鹿にされるんじゃないかとか、不安で被害妄想にまで走っちゃうんです。ベテランの映画スタッフさんから“芸人というだけでチャンスをもらった”と思われるんじゃないか、とか」
「でも実際は、皆すごく親切で協力的で、わからないことも教えてくれて、僕に選択肢をくれました。周りの助けが本当にありがたかったです」。
地元・沖縄のバックアップも大きかった。映画に登場する建物などは、作られたセットではなく、すべて実際に現地にあるものだったとゴリさんは話す。
「全国の中でも、沖縄は飛び抜けて郷土愛が強いですから。“ゴリが映画撮るなら、いくらでも場所を提供するよ”って、見ず知らずの人たちが、自分のお店や養豚場や自宅さえも、映画のために明け渡してくれました」
「メイン登場人物であるマサルの家なんて、偶然僕がパッと見て、“この家いいな、貸してもらえないですかね”と言ったら、スタッフが交渉しに行き、2分で“OKです”って戻ってきました。信じられないでしょう」。
<<制作期間3か月半! 厳しいスケジュールでも独自性とリズム感めざす>>
制作期間は、脚本作りに1カ月、オーディションやロケハンなどに1カ月、実際の撮影が16日間で、その後の編集や音入れに1カ月。合わせて3カ月半ほどだったという。長編の脚本にも初挑戦だったゴリさんに、どのようにストーリーを組み立てたかを聞いた。
「とにかく、今までにない沖縄映画にしたかったんです。沖縄出身のお笑い芸人が撮ればこうなる、という独自性を出したいと思いました。ノンビリしたおじいとおばあがいる沖縄もいいけれど、もっとリズム感があって、アグレッシブで、笑えるものはないかと思ったとき、頭に浮かんだのがコザ市(今の沖縄市)だったんです」。
<<コザ市の持つ”チャンプル性”に着目>>
コザ市といえば、米軍基地のある街。沖縄の人と米兵が一緒に生活するこの街で、2つの国の文化のチャンプル(融合)を描きたかったという。
「僕が持つコザ市のイメージは、一歩間違えたら喧嘩になるんじゃないかというハラハラ感と、新しいカルチャーが生まれそうなドキドキ感があって、独自の異国情緒を感じさせる街なんです。それを思いきり活かしたいという考えがありました」
「米兵のイメージは“強い”、強い奴に勝ったら盛り上がる。でも、沖縄の男は米兵より小柄で弱い。どうしたら勝てるか。沖縄には琉球空手があるから、それを使おう。しかし、ただ喧嘩するのではつまらないから、男同士が女をかけて戦う話にしよう。異国情緒ある街でのヒロインには、金髪美女が似合うだろう……というように、物語を作っていきました」
<<スケジュール、予算とのバランス考慮し脚本修正>>
脚本は、リライトまで含めて1カ月で書き上げたという。
「140ページくらいの第1稿ができたときに『撮影は16日間』といわれて、まず30ページ削除しました。カットできるところはカットして、撮影時間短縮のために主人公たちの職業を一つの場所に集めました」
「あとは、予算節約のための工夫もしましたよ。最後の決闘シーンでは観客3,000人という予定だったんですけど、エキストラのギャラを考えると無理だと言われて。がらがらに空いた闘牛場で撮ったんです」
<<お笑いでも映画でも“間”が命>>
映画の撮影や演出で特に気をつけたポイントは何か。
「“間”です。笑いは本当に“間”が命取りで、ちょっとでもずれると、大笑いのはずが失笑になってしまう。話すポイントも、ツッコミのタイミングも、僕の“間”に従ってもらいました」
「あとは“イメージの伝え方”にも苦労しましたね。自分が思い描く演技と、役者本人が想像する演技は違うので、伝えるのが大変でした。ある意味、主演を自分でやるのは楽でした。自分では頭の中でわかっていますから」
普段のお笑いの仕事と映画作りの違いについては、「舞台でのお笑いと違うなと思ったのは、“見せたいところだけを見せることができる”点です。音も使えるし、編集で間を変えることもできる。こうした“舞台に無い手法”で表現の幅が広がりますから楽しかったですよ」とゴリさんは話す。
<<周囲からも大好評>>
こうして出来上がった作品は、周りの人々からも大好評だった。
「きのう突然、鶴瓶師匠から電話があったんです。“いまラジオの放送中なんだ。ゴリの映画が面白すぎたから、もっと宣伝したくて電話したんだよ”と。日本でもこんな映画がもっと作られるべきだ、ぜひ第二弾を撮ってくれ、と言われました」
「こっちがオファーもしていないのに、ご自分のラジオ番組で僕の映画の話題を取り上げてくださって、涙が出そうでした。ココリコの田中さんも、ナイナイの岡村さんも、勝俣さんも、芸人さんは皆見てくれて、“あんな作品をゴリが撮れると思わなかったよ”と誉めていただきました」。
<<早稲田から日芸に進路変更、そして吉本へ>>
日本大学芸術学部の映画学科出身であるゴリさん。彼が、芸の道へ進もうと思ったきっかけは何だったのだろうか。
「もともと大学は早稲田を目指していたんです。理由は単に、人からすごいと言われたいからでした。高校受験の時、落ちこぼれだった僕が頑張って沖縄の進学校に合格し、周りの皆が驚いたときの快感が忘れられなかったんです」
「“すごい大学ってどこだろう、じゃあ早稲田”と。でも1浪しても受からなかった。2浪目で東京の予備校に通っていたけど、勉強が追いつかない」
「何のために頑張っているんだろうと悩んだとき、同じ予備校の友達に、“何にでもなれるって神様が言ったら何をしたい?”と聞かれたんです。“それなら映画とか好きだから役者がいい。簡単になれないものだから目指したこともない”と答えたら、“日芸に行けばいい”と言われました」
「調べてみたら有名な映画人も出ているし、大学にも行けて、役者を目指す夢もある。こんな面白い大学があるのかと、目標に向けて勉強にも身が入り、日芸1本に絞って勉強したら、そこだけ合格しました。入学してみたら、思っていたより芸能界は遠い世界じゃないと思えたのも嬉しかったです」。
<<大事にしてきた気持ち「頑張れば俺は何でもできる」>>
お笑いの道を勧められたのも大学生の頃だった。「人を笑わせるのは大好きだし、芸人さんの中にはお笑いの仕事をしながら映画を撮る人もいて、僕の好きなエンターテインメントを幅広くできる仕事だと思いました。そこで、大学を辞め、相方の川田を呼んで、お笑いで有名な吉本興業に入りました。“頑張れば俺は何でもできる”という気持ちは、ずっと持っていましたね」
映画学科で学んだことは、現在の仕事にも大いに役立っているという。
「僕は演技コースだったんですけど、見せ方を勉強したことは大変役立っています。舞台でも、一人が前に出たら後ろに一人さがるとか。映像の見せ方に関しては、専門に学んだわけではないですが、自分が出演した番組を見ながら、感覚として学んでいた部分が大きかったですね」
「今回の撮影で、専門用語が分からなくても、カメラマンさんにイメージを伝えれば、やれなかったということはなかったです。また、効果的な撮影技術などを、プロのカメラマンさんに教えてもらうこともありました」
<<父も目指した映画監督に 「やっと自分が出せる」>>
ゴリさんにとって、監督とはどういうものなのだろうか。
「やっと自分が出せるという思いはありました。テレビは規制も多いですし、ある意味、映画の方が表現しやすい部分もあって。また、今回は脚本と監督まで手掛けたので、本当に自分のやりたいようにできました。それと、偶然にもうちの親父が、かつて映画監督を目指していた人間なんです。沖縄国際映画祭で僕の映画を見た時は、息子が映画監督になってくれて嬉しいというのと、自分ができなかった夢を息子が叶えてくれたという、2つの意味で涙を流していました」
ゴリさんに、監督としての今後の展望を聞いた。
「チャンスさえいただければ、第2弾、第3弾も沖縄で撮ってみたいです。海も空も映画で見たままのきれいな色をしていて、どこを撮影しても画になりますし、食文化や風習や考え方も独特なんです。沖縄は映画の宝庫です、面白いですよ」。
会話の“間”を生かした映画作りを重視したと語るゴリさん